ソースも糞もない書き殴りの文章

 ボーっとしているとふとこう思った。世の中差別しちゃダメーとか教育されるけども、差別しない人間なんて存在しないよな、と。「差別意識のない」のほうが正しい表現かもしれない。
 差別なんてしてないと思う人も多いだろうけれど、本当に自分が差別してないって言い切れるのか聞いてみたいところ。趣味なんかは差別の対象になりやすい。特に、所謂オタク趣味なんかは。オタク趣味に対する差別的な記述なんかは所謂モテたい(笑)雑誌とかでも堂々と載ってたりしますし、新聞なんかでもなにかしらの事件の犯人がオタク趣味だったりすると、それが事件に直接関係がありそうでもなさそうでも嬉々として叩いたりしますしね。逆にアウトドアな趣味だったり、経済に貢献するような趣味だったりすると、ほとんどの場合マイナス評価されることはない。こういう扱いの差なんかはれっきとした差別に当たるんだけども、そういうのに無自覚な人って結構多い気がする。「職業に貴賎はない」っていう名言があるけれど、何故あれが名言扱いされてるかって言ったら、それを実行できるような人があまりいないからなんじゃないだろうか。ほとんどの人が実行出来ているんならそんな当たり前のことをうだうだ伝えないんじゃないかなーとふと思う。
 個人的に一番気になるのは、障害者だとか部落だとかそーいう大きな差別問題に関しては口うるさく注意だの規制だのするくせにさ、趣味に対してだとかそーいう小さい部分への差別に関しては全くノータッチどころか、報道機関やらが率先して叩いたりしていることにすんごい違和感あるんだよね。まあ、報道機関なんて自分に利益がくるようなことを平気でやるわけだから、仮に障害者叩きで利益が出るようになったら嬉々として叩くだろうから気にしなくていい気もするけれど。それに影響される人が少なからずいるのが問題なんだよなあ。


 俺は差別してない・・・わけない。口には出さないけどそりゃあ見下したりする対象だっているさ。それ以上に関心のない相手の方が多いけど。
 そー思うと霊夢の「何者にも平等に接する」ってすげーなあ。人間にも出来る範囲のことなんだけど、それを実行するのはまあ無理なことでしょう。誰かを優遇することもなく、誰かを冷遇するわけでもない生きかたなんて出来ないもの。それは友人関係や、恋人を作らない生活と同義だもの。仮に友人にも他人にも同じ接し方をするならば、それじゃあ何を持って「友人」と定義するのかさっぱり分からなくなってしまうわけで。ようは孤独に生きなきゃいけないわけであり、そー言う生きかたが出来るか、と言われたら出来ないね。
なんか微妙に調べたら幸福論で「孤独とは精神的に優れた者の運命である」ってうい記述があるらしいねえ。実際そうなのかもねえ。


 やはり推敲も何もしないで書いた即興の文はひでえ。読み返すと何が言いたいのかよー分からないし。
 今の日本って「暇であるコトを否とする」風潮があるよね。働く必要もないのに働く必要ないでしょうに、何故かそうしていると叩かれたり。動画を毎日投稿しているとニートニート言われたり。動画のほうはネタという面もあるでしょうがたまに本気で言ってるっぽいのがいるから怖い。


 昨日のスイーツ(笑)は中々美味しかった。流石に一時間くらい食い続けると甘いもの特有の腹の重さが辛かったかな。でも780円(セット価格なら+390円)であんだけ食えるなら良い。場所が場所じゃなければもっと活用したいんだけどなあ。